現代に通じる「葉隠」 自らを磨く!<講義をする方になること>
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飯能市での視察を終えましたが、米沢に帰らず仙台に向かいました。
仙台で林英臣政経塾の例会があったため、視察と合わせると3泊になりました。
3泊ともなれば疲れも出てくるのですが、今回は緊張感をもって臨むことができました。
というのも、林塾の講義で、私・渋間が塾長に代って講師をすることになったからです。
塾生のみなさん特に同志・塾士の前で、うわべだけの言葉で臨んでは、メッキはすぐはがされます。
よって言霊をもって臨まなければならず、そう取り組みました。
私・渋間の講義の内容は「葉隠」の精神です。
幸いにも10月11月と視察や出張が多く、移動時間に林先生の講座録音データを聞く時間を取れました。
なおかつ葉隠に関する本など読む機会にも得ました。
自然と葉隠に少しは詳しくなり、講師をしたことと併せて葉隠について触れてみたいと思います。
葉隠とは、平和と繁栄の江戸中期になり、武士が武士らしくなくなってしまったことに危機感を抱いた佐賀・鍋島藩でまとめられた書物です。
葉隠をまとめるに山本常朝という語り部がおります。
山本常朝は主君が亡くなり後を追って切腹しようとしましたが、時代が藩がそれを許さず出家する道を取りました。
出家した山本に、武士の根本を知りたいとする田代陣基(つらもと)という若い侍が話を聞きに行き、その話を7年かけてまとめたのが葉隠です。
葉隠に記されている内容は、武士道とは何か、余ることなく集約されております。
いろいろ書きたいところですが、葉隠すべてに含まれていることは、「大高慢であれ」「死ぬことと見つけたり」ということでしょう。
「大高慢であれ」とは、一人でも藩を背負っていく覚悟がある、一人でもやり遂げる、という意識を持てということに他なりません。
ともすれば、みんなやるから後からついて行こうとか、自らの責任を取らないやり方を選びがちです。
しかし大高慢であれば、自らの主体性を大いに発揮されることになり、責任も取ることになります。
そういうことです。
葉隠の代名詞ともいえる「武士道とは、死ぬことと見つけたり」でしょう。
命までかける必要のない仕事か、命がけで取り組まなければならない仕事か、といえば迷わず命がけで取り組まなければならない方を選べ、ということです。
どう生きるか、とはどう死ぬか、ということに通じるものがあります。
葉隠については、他にも困難に立ち向かうべきことなど、講義で話したことやお知らせしたい内容が多々ありますが、ぜひ三島由紀夫が書いた『葉隠入門』新潮文庫 450円を読んでみてください。
江戸の繁栄と平和の時代と平和ボケともいわれる現代とは、似ているように思えます。
その意味で葉隠を今、学ぶということは大きな意義があります。
武士はいない世の中ですが、現代の下級武士たる平成の地方議員は必読と思います。
ともあれ葉隠について講義をしたことは、そのことよりも、その前に相当勉強し、自分のものになった、という大きな収穫になりました。
講義をする方になることは、大変なことですが、その分理解も深まるものと気付きました。
なによりも講義の後、受講した塾生や塾士から嘘でも良かったと言っていただいたのは、大きな喜びでした。
講義をする方になることは、 ⇒⇒⇒ 自分を磨くことになる!と思う。
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